マンガ時評『マンガホニャララ』の執筆や、小学館漫画賞の選考委員を務めるブルボン小林さんが語る男性マンガ論。
1950〜60代の黎明期から現在まで、約70年にわたりたゆまぬ成長を続けてきた男性マンガ。その歴史をたどりながら考えると、名作や名キャラクターが、どのような時代の流れやニーズによって生まれてきたのかが明らかになってきます。
※この記事は2018年4月〜6月に掲載されたインタビューを再構成したものです。
男性マンガは競い合うことで成長してきた
マンガ業界の拡大構造は、化粧品業界に似ている?
マンガはかつて、人知れず大儲けできるメディアだったわけですよ。昔のマンガ家はみんな「4畳半でコッペパン食ってた」みたいな印象があるけど、マンガ誌はどんどん創刊するし、マンガ家も出版社も大儲けした。
かつての小学館のビルは「『オバQ』ビル」と言われていたでしょう。『オバケのQ太郎』一作のヒットでビルが建つわけです。
「マンガ」という言葉のイメージだと呑気面をしてみえるけど、裏ではすごく儲かったがゆえにマンガ雑誌づくりは各社がしのぎを削っていたし、より大きいパイを獲りに行くみたいな貪欲さがあった。
よくビジネスの世界で化粧品の例えが使われると思うんだけど、まず顔をきれいにする。顔をきれいにする化粧品がだいたい行き渡ったら、ボディケアだとか髪の毛だとか、部位をどんどん広げて、儲けを獲りに行く。
やがて、考えられる商品は全部つくっちゃったっていう時にどうしたかというと、メンズ化粧品を売り出した。そうすればまた顔、体というふうに、倍に市場が広がるから。
各社が児童向け雑誌をマンガ専門誌にして、月刊を週刊にして、少年マンガ少女マンガだけでなく青年マンガ誌を立ち上げていったということは、そういう貪欲さに似てる気がするんだよね。まだ獲りに行くぞ!と。
手塚治虫に代表される「勝ちに行く」文化
マンガは貪欲なメディアで、かつ、オルタナティブなやり方でライバルの雑誌やマンガ家に対抗していく傾向が強い。手塚治虫がそもそもそういう人だったんです。
彼は何にでも勝ちに行く人で、「それをやらない」っていうことを我慢できない。つまり、やりすぎなんですよ。
例えば、『鉄腕アトム』が大ヒットして、後続のマンガ家たちはみんな、『アトム』というすごい作品がある中「どんなマンガを描きゃいいんだ?」と悩むことになった。
そんな中、横山光輝が『鉄人28号』をヒットさせる。彼のインタビューを読むと、ロボットのマンガは『アトム』という金字塔がある、それと普通に戦っても勝てない。
手塚にリスペクトのある言葉だけど、じゃあどうしたらいいか? そうだ、『アトム』の真逆をやればいいんだと。
だから、ロボットに人格を持たせない。リモコンが奪われたら悪の手先にもなるロボットの争奪戦っていう、ミステリー的なものにしようとなった。発想が『アトム』へのアンチでもあるし、『アトム』には勝てないっていう意味もある。
そうしたらですよ。そこに手塚が「何するものぞ」と『魔人ガロン』の連載を始めた。
巨大ロボットで悪の手先にもなるっていうのは、「俺のほうがもっと面白いのが描ける」みたいに、明らかにぶつけてくる(笑)。リスペクトされてんのに。
白土三平の『カムイ伝』のように凄絶な、残酷に切って捨てるみたいな時代劇的なマンガが流行ったら、自分はもっとすごいのができる、って『どろろ』をやるんだけど、最初からもう、主人公の体が48箇所切断された、みたいな始まりで。白土三平よりも凄絶だぞっていう、設定で勝ちに行っていることがありありと分かるんだよね。全部やるっていう。
手塚治虫がやらなかったのは、何かコンプレックスがあったのかわからないけど、スポーツマンガだけだと思う。
黎明期から根強く残る、マンガ誌ごとの色合いとは
マンガ家やマンガ誌がしのぎを削った結果、なぜかは分析できないけども、「1強」にならなかった。「ジャンプ」が600万部だった時だって、「マガジン」や「サンデー」も売れていた。そして、劇的で激しい「マガジン」とクールで乾いた感じの「サンデー」みたいに、マンガ誌のトーンも昔からの系譜が残っている。
『あしたのジョー』や『巨人の星』のように、「マガジン」はエモーショナル。梶原一騎的な熱さ、泥臭さを『はじめの一歩』だってどこかに受け継いでいる。
一方の「サンデー」は『オバQ』的な「異分子が日常にいるけど、異分子によって日常が全く脅かされない」マンガが多い。『うる星やつら』もそうだし、最近の連載だと『だがしかし』もそう。
駄菓子にやたらと詳しい美少女が、平凡な少年のところに毎日やって来てはドタバタすると。でも、その平凡な少年の日常のほうがすごいトーンが強くて、全く脅かされない。『オバQ』と変わってないでしょう。
そのぐらい黎明期から強く、マンガのトーンみたいなものが住み分けられたっていうか、変わらずにあるんですよね。
拡大を続けた少年・青年マンガ雑誌
図表:編集部制作/参考文献:吉村和真編『マンガの教科書』(臨川書店)
マンガ表現における『AKIRA』の衝撃
青年マンガでも競り合いは続く
79年から80年代に、「ヤングマガジン」「ヤングジャンプ」「モーニング」「スピリッツ」など、いまも続く主要な週刊青年マンガ誌が創刊されました。
青年マンガ誌でも張り合う文化は引き継がれて、イケイケドンドンで「向こうがこうなら、こっちはこうだ」みたいなことが、雑誌間でも、同じ雑誌の中でも激しく行われていた。
例えば『ハロー張りネズミ』を読んでいるとすごく分かるんだけど、他のマンガに負けまいとして、話をどんどん過激にしていっている。
最初は人情もので始まるんですよ。松田優作にはなれない、二枚目半の探偵が事件の人間ドラマを見せてるんだけども、どんどん「ロシアのマフィアが......」と大風呂敷が広がって、果ては宇宙人と交信まで始める。
それは弘兼先生自身の興味ももちろんあっただろうけれども、小さくまとまらせないようなパワーが雑誌自体というか、他の連載にもあった。
『ヤングマガジン』創刊号
80年代の『ヤングマガジン』の充実
イケイケドンドンだった80年代の青年マンガで印象が強いのは「ヤングマガジン」。
オタクに受けた『3×3 EYES』やヤンキーマンガの『ビー・バップ・ハイスクール』もあれば、超クオリティーの高い『AKIRA』も載っていて、『ハロー張りネズミ』のような青年誌的なものもある。さらには『ぎゅわんぶらあ自己中心派』のような麻雀マンガまで載っていた。
僕は単行本で読んでいて、そんなに当時、雑誌の「ヤングマガジン」を読んでなかった。だから「いま思うに」なんだけど、こんなにヒット作を一度に載せてたのかと。90年頃は「スピリッツ」が牽引していた印象があるけど、どこかの雑誌が良ければ他も負けじと刷新するようなかたちで、パイを広げながら青年マンガも定着していった。
ブルボン小林さんの80年代「ヤングマガジン」注目作品
マンガに対する評価は『AKIRA』で変わった
一方、ビジネス的な規模の大きさや熱気と別に、マンガはまだまだ社会の中では認知されていなかった。「マンガばかり読んで」みたいに一段低いものとして見られるというコンプレックスが、マンガ業界の人にはあった。手塚治虫がPTAに有害図書とされて校庭で自分の著作を燃やされたっていうことをマンガ内でも嘆いているけど、自分が表現したものを燃やされるなんてことは、なかなかないですよね。
その風潮が変わってきたのもこの頃。批評家も含めて、何かマンガのことを語る際に、「たかがマンガとは言わせない」という表現をよく見かけるようになった。「文学を超えた」とかね。
その「たかがマンガとは言わせない」っていう言い方が出てきたのは、特に大友克洋の『AKIRA』からですよ。何というクオリティーの高い絵で、何という深淵なテーマを取り上げているんだ、と。
(後編に続く)
話を聞いた人
ブルボン小林(ぶるぼん こばやし)
1972年生まれ。「なるべく取材せず、洞察を頼りに」がモットーのコラムニスト。2000年「めるまがWebつくろー」の「ブルボン小林の末端通信」でデビュー。現在は朝日新聞夕刊(関東、九州、北海道)、週刊文春、女性自身などで連載。小学館漫画賞選考委員。著書に『ジュ・ゲーム・モア・ノン・プリュ』(ちくま文庫)、『増補版ぐっとくる題名』(中公文庫)、『ゲームホニャララ』(エンターブレイン)、『マンガホニャララ』(文春文庫)など。