2021.03.19

「コロナが気づかせてくれた、いつもの日常の"価値"」──小山薫堂

ポストコロナによって始まる「ニューノーマル」について、著名人に聞く連載。第3回は、放送作家、脚本家などマルチに活躍する小山薫堂さんに「コロナを機に変化する価値観」について、お話を聞きました。

協力/齋藤素子


感動体験を得るものが"ラグジュアリー"

──小山さんは、「高価・贅沢・華美」という基準ではなく、「ほんもの・心地よさ」に価値を見出す日本発ラグジュアリー「JAXURY(Japan's Authentic Luxury)」に賛同され、「高価でも、愛されていなければ、ほんものではない」とコメントされています。まずはあらためて、小山さんがお考えになる「ラグジュアリー」について教えてください。

小山薫堂(以下、小山) 「ラグジュアリー」は、いわゆる「目利き」とは少し違うと僕は思っています。日本語には「愛着」という言葉がありますが、その「愛を着せる、着せかけたくなる」という行為がラグジュアリーなんじゃないかと思います。だから「高価でも、愛されていなければ、ほんものではない」と考えているんです。

そのためには、"感じる心"も大切ですよね。部屋に花を一輪飾るだけで豊かな気持ちになりますが、たとえそれが1本の枯れ草であっても、豊かな気持ちになることはできると思います。そういう、「感じとれる力」を、いつも自分の中に持っていられたらいいなと思います。

──受け取る人によっても、「ラグジュアリー」の定義は変わりそうです。

小山 そうですね。ものの価値は、そこに価値を感じる力があるかどうかで変わってきます。

たとえば、僕の祖母が使っていた指輪型の時計には「ロレックス」の文字が入っていました。本物かどうかは分からないのですが、祖母はその時計をとても大事にしていました。僕にとっては、「本物のロレックスかどうか」ということよりも、「祖母が使っていた思い出の時計」というところに価値があります。

「おばあちゃん」という愛する人がいて、そのフィルターがあるからこそ、時計が輝いて見えるのです。そういうフィルターを自分のなかで創造する力があれば、どんなものにも価値が生まれてくるのではないかと僕は思っています。

──ラグジュアリーとは、その人にとって「特別なもの」とも言い換えられそうです。

小山 本物の「本」という字は、「根本」「基本」という熟語が示すように「根っこ」を表しています。すべての人々の感動の根っこにあり、それを使うことによって、感動体験を得られるもの。そこに"ラグジュアリーの本質"があるのではないでしょうか。

だから、多くの人から愛される。これをモノの立場から考えると、所有者から「愛される力を持っているもの=ラグジュアリー」と捉えることができます。

愛される力のあるものは、どんどん愛の衣を着せられて愛がコーティングされ、輝きが増していきます。だから時間が経っても「経年劣化」ではなく、「経年優化」していくわけです。

愛され力のあるものに、僕は粋(いき)を感じます。粋って、和ませることなんじゃないかと思うのです。ラグジュアリーなものって、それで威嚇したくなる人が多いし、そういうつもりがなくても「わあ、すごい! 高そう!」などと思わせて、結果的に威嚇してしまうこともあると思うのですが、僕は、威嚇するどころかむしろ和ませたり、くすっと笑わせたりするものにこそ粋を感じて、とても愛おしくなります。

一方で、いくら伝統があっても、高価でも、愛され力のない商品は、時間の経過によって輝きを失ってしまいます。そういうものは、決してラグジュアリーとは言えないと僕は思います。

コロナが教えてくれた「すぐそばにある」ものの価値

──コロナによってさまざまな価値観が変わりました。小山さんが今、注目しているものは何でしょうか?

小山 新型コロナウイルスによって、私たちの生活は一変しました。そのなかで、「当たり前の愛おしさ」「いつもの日常の価値」をあらためて感じた方は多かったのではないでしょうか。

これは、「今まで当たり前だと思っていたことが、実は当たり前じゃなかった」ということに気づかせてくれた、神様からのメッセージだと僕は思っています。

これまでの日本は、海外や外に目を向けることが多く、希少性のあるものや手の届かないものに価値を感じていた風潮があったように思います。

でも、コロナで海外どころか自由に外出も人と会うこともままならなくなり、身近なものに目を向けるようになって、「実は自分のまわりに、こんなにすてきなものがあったんだ」ということに気づき、その価値を再評価するようになった。日本という自分の住む国に対しても、あらためて愛着を覚えた方も決して少なくないのではないでしょうか。

──新型コロナウイルスを契機に、「日本の価値」を見つめ直した方も多いように思います。そのなかで、日本発のラグジュアリー(JAXURY)の強みとは、どこにあると思われますか?

小山 西洋では「個」を大事にしますよね。これは僕の勝手な分析ですが、西洋では石やレンガでつくられた家で育つので、1人ひとりが「自分観」をしっかり持ち、「個」であることに孤独感やさみしさを感じないのではないかと思うのです。

一方、日本の場合は、木と紙の家に住んでいるので、常に誰かの気配を感じながら生活しています。そのため他者を慮(おもんぱか)る力が備わっていて、自分だけではなく、ほかの人にも心地よさや豊かさをわけてあげたいという粋(いき)な計らいがあるように思います。

ラグジュアリーは、そのもの自体に魂を感じられるくらい、人が愛を注ぐことでもあると僕は思っているのですが、そういう意味でも他者を気遣う「慮る力」は日本ならではの「JAXURY」だと思います。

──「慮る力」が宿った"日本製"は、心を豊かにしてくれる。たしかな「ラグジュアリー」がそこにはありますよね。ほかにも注目している「日本発」があれば教えてください。

小山 僕は「方言」には大きな価値があると思っています。それぞれの土地に根付いている方言には、ただの言葉では終わらない魅力を感じます。

今年公開予定の『のさりの島』という映画のプロデュースに携わったのですが、この映画のタイトルの"のさり"というのは天草地方に伝わる古い方言で、「天からの授かりもの」という意味なんです。「いいこともそうでないことも、今ある自分のすべての境遇は天からの授かりもの。だから、否定せずに受け入れる」という、天草の優しさの原点でもあるそうです。

コロナ禍で先が見えない今の状況も、「のさり」だと思えば、諦めるのではなく「許す」ことができるように思います。

方言は、日本全国それぞれの土地にある「ラグジュアリー」です。各地の方言を探していく「方言大賞」みたいなことも、今後ぜひやってみたいですね。

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